ボダナート

 

 

 

 

 
ネパールの首都カトマンズにある巨大仏塔の上から撮ったものです。屋根みたいなところに登って一周できます。懐かしい。
葬式のイメージしかない陰気で地味な日本の仏教とちがって、仏教の源流まで遡って見たチベット仏教はカラフルで宇宙ぽい。
仏塔がまるで宇宙船。インドからネパールに渡るといろんな意味でホッとする。客引きや物乞いに取り囲まれることもないし、
お酒も売ってるし、チャイばかりだったインドと違ってコーヒーも飲めるということで早速コーヒーを頼んだらレーズンのような?
なにか混ざっていたのでスプーンですくいあげたらハエだった。ハエが2,3匹ほど隠し味として混入してたのですけど、そのダシを
すくいあげて何事もなかったかのようにそのまま飲んだ。最初は店員の嫌がらせかな?と思ったのですけど特に日本人を毛嫌いする
土地柄でもないし、厨房をチラと見たらまるで世界の終末のようにハエの嵐だったものだから最後の晩餐のような気分になった。
インドでは倫理観を揺さぶられるような出来事にたびたび遭遇したので、ハエごときでいちいち反応してたらキリがないのだけれど、
日本でハエ入りコーヒーが出て来たら一応店員に苦情を言うと思います。そもそもこことあそこでは倫理観のコードが違うのだ。
ネパールは仏教徒の国だなという印象を受けるけど、ブッダが生まれたインドでは仏教ではなく何故かヒンドゥー教が幅をきかせてて
ゾウの頭をしたガネーシャだとか破壊のシヴァ神だとか土着的な神々のキャラ設定の多彩さとぶっ飛んだデザインには感心するけど、
ヒンドゥー教身分制度であるカースト貧困層に受け入れられている理由がわからない。そしたらこの前カーストの差別に嫌気が
さして仏教徒に鞍替えする貧困層が増えているというニュースをたまたま見ました。ヒンドゥー教では貧乏人は前世の報いの結果
であるという救いようのない設定なので、死んで生まれ変わらない限り身分の壁は越えられない。でもキリスト教だったら金持ちが
天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい、と聖書に書いてあるじゃないですか。だから貧乏人はキリスト教を、金持ちは
ヒンドゥー教を、プチブル共産主義者は仏教を、無神論者は神道を(汎神論=無神論)信仰したらいいんじゃないかと思います。
インドでいまでも脳裏に焼き付いている出来事は、カルカッタの雑踏を歩いていたら物乞いの子供と目があってしまったのだけど、
安楽な国からやってきたボンクラな自分をロックオンした彼が近寄ってくるわけ。でもなんか奇妙な動きだなあと思ってよく見ると、
ボロ布みたいな服の下には両手両足がなかった。それに気づいたとき一瞬凍り付いたのだけど、手足のないガリガリに痩せた体と
無邪気なのか真剣なのかわからないギラギラした目が自分を追ってくる。で、気づいたら逃げるように走り去ってしまった。
見るに耐えられないし、そういうリアリティーに圧倒されてしまって慈悲とか可哀想とかそんな感情が湧く余裕なんか全くなかった。
テレビやマンガの世界じゃない。あのときどうすべきだったか?なにができたのか?ポケットにあったお金を渡すぐらいの冷静さで
いられなかったのか?渡したってあとからあとから物乞いが湧いてきてキリがなかったじゃないかとか?何度か思い返してみたけど、
答えはない。まあ仏教的にいうなら、その瞬間の選択が自分が何者なのかを規定する。それがそのまま世界になる。他者は自己の鏡。
神は一切そこに介入しない。という愛?なんでしょうかねえ。