Khajuraho

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
カジュラーホーは10世紀に建てられた寺院群で有名な小さな村で、同じヒンドゥー教アンコール・ワットの遺跡にとても似てる。
寺院を一通り巡ったらもうなにもないところなので村人を観察したり、村の子供に絡まれたり、占い師に手相を見てもらったり、
うすらボンヤリ千年前の寺院を眺めて過ごしてたらあっと言う間に50年ぐらい経ってしまいそうな乾いた土地のほっこりオアシス。
ここの村人達は農業を営んでるようにも見えないし、一体なにで生計を立てているのかムーミン谷の住民みたいにナゾだった。
肝心の寺院の写真が一枚もないのは持っていったフィルムに限りがあったので無駄撮りをしたくなかったのと、観光ガイドにある
ような写真を撮るよりその瞬間しかないものを優先してたのだと思う。基本カメラは裕福層のものなのでフィルムなんか売ってない。
カジュラーホーの寺院は壁にびっしりと性交する男女の肢体が彫られていることでも有名なんですけど、かなりアクロバティックな
体位もあってそのアバンギャルドぷりに性的モラルなど超越したなにかを感じる。日本でいうと神社の柱や壁に四十八手がびっしり
彫り込まれているようなもんです。インドでよくわからないのは、女性がサリーで肌を隠すような性的に抑圧的な印象がある一方、
古代インドから伝わるカーマ・スートラという、体位や変態性欲や3Pプレイの解説などを綴った愛の経典があったりすることです。
現代インド人は知らないけれど、少なくとも古代の人たちにとって性交は寺院に彫ってしまうぐらいごく自然なものだったのかと。
性は聖でもあった。むしろ自然なことを猥褻なものにしてしまった現代人が変態なのです。性的表現の難しさは、抑圧しすぎても
逆に解放に走りすぎても変態になってしまうことです。なにごとも普通がいい。いや変態でもいい。いやどうだろうわかりません。
日本でも真言立川流という、男女交合の境地を即身成仏の境地と見なして性交を修行にしていた密教の宗派があったのですけど、
邪教として激しい弾圧を受け歴史から抹殺されたことで謎が多く密教マニアには有名なんですけど、オーガズムとは刹那のワンネス、
ニルヴァーナに到達する体験じゃないですか。キリスト教的にいうならエデンに還る瞬間です。ブッダぐらいのレベルになると瞑想
だけでニルヴァーナに達するわけですけど、知恵の実を食べてエデンから追放されてしまった僕たちは性交するしかないのかしら。