写真。と関係ないはなし

 

 

 

 

 

 
 
日が暮れてたまたまテレビをつけるとたまたま「巨人の星」を神奈川テレビという地方チャンネルで毎日やっているので、
とりとめなくぼんやり見てしまうのですけど、原作はあのタイガーマスクと同じ梶原一騎、リアルタイムじゃなくて小学生の
ころ再放送で見てました。右翼的センチメンタリズムと評される巨人の星ですけど、改めて見直してみるとそこにはひたすら
主人公である飛雄馬と彼が生み出す魔球、大リーグボールに対する偏執的な愛が描かれており、我が栄光の巨人軍の勝敗などと
いったことは実はどうでもよいことのように見えた。それは「オレと魔球」という閉じられた設定がそのままセカイの存亡に
直結するような、ある意味でセカイ系のような構造をもっており、観客も球団の勝敗も社会もまったく関係ない、すなわち
魔球が打たれるということはそのまま「オレ」にとってセカイの破滅を意味する。そもそも魔球がキャッチャーミットに届く
まで毎度途方もない時間がかかるのですけど、それは時空を超越した飛雄馬の星の歴史そのものといっても過言ではなく、
その間にさまざまな思いが交錯するわけです。飛雄馬を育てた父一徹は敵軍のコーチとなり、よき相棒であった伴宙太までも
敵軍にトレードされ、飛雄馬を取り巻くあらゆるすべてが魔球を叩き潰すためのライバルとなることで逆に飛雄馬の魔球への
偏執的な愛はますます磨かれ強化されていく。その魔球が敗れると巨人の星というセカイは一度死を迎える。そこで飛雄馬
悩み、苦しみ、もがきながら猛特訓を重ねる。そして再び新魔球と共にグラウンドに蘇る。そんな死と再生のドラマであった。
ちなみに名作マンガの最終回ばかりを集めた「いきなり最終回」というダイジェスト本がたまたま本棚にあったので読み返して
みたのですが、「巨人の星」の最終回は魔球の投げ過ぎでもはや飛雄馬の左腕はボロボロ、渾身の最後の一球を投げて腕を破壊
しながら伴宙太を打ち取る。巨人軍は優勝する。そして飛雄馬を頑に認めなかった父親からの敗北宣言。しかし左腕を壊した
雄馬の魔球はもはや失われてしまった。エディプスコンプレックスを乗り越えた彼に魔球はもういらない、という見方も
できなくもない。父親の亡霊は去った。飛雄馬は友人でありライバルであった左門と京子の結婚式を窓からそっと見届けたあと
独り寂しく街を去り行方不明となる。いつしか世間からも忘れさられる。「タイガーマスク」の最終回はチャンピオンベルトが
かかった大事な試合の直前に、マスクをとった伊達直人が橋の上を歩いていると突然、自転車に乗った子供が転んで車にひかれ
そうになり、その子を助けようとして自分が身替わりにはねられて死んでしまう。意識を失う直前に伊達直人はポケットにあった
タイガーマスクを川に投げ捨てることで、誰にもその正体を知れることなく死んで行く。という巨人の星以上にヒロイズムの極地
でありました。世間を賑わせた例のランドセル騒動は行き場を失ったヒロイズムの亡霊がランドセルという形で結晶化したもの
と考えられなくもない。そんなランドセルを子供に背負わせるのははちょっと荷が重過ぎる気もする。受け取る側のことを考えて
みると現金でもらったほうがなにかと助かると思いますけれども、現金だと伊達直人のヒロイズムは成仏しないのかもしれない。
あと魔球といえば「アタックNO1」の最終回もあったのですけど、宿敵ソ連と魔球vs魔球の熾烈な戦いを繰り広げ、鮎原こずえの
魔球である竜巻落としもとうとうソ連に破られてしまう。と思ったらこずえは速攻で新魔球を生みだして対抗するという展開の
早さなんですけれども、接戦の末に結局日本は負けてしまう。しかし主人公の鮎原こずえは最優秀新人賞に選ばれ、最後まで
バレーボールとあゆむことを誓いながら新たなスタートを切るというところで終わる。ついでに作者の浦野千賀子氏の挨拶文が
あって連載中に結婚、出産といろいろ大変ことがあり生まれた娘に「こずえ」という名前をつけました。これからもよろしく
お願いします。・・等書いてあるのを読み、母は強いなあと思った。孤独で破滅的な孤高のヒロイズムを貫いた梶原一騎とは
対照的だった。すべての男は消耗品か。いよいよ公開される「あしたのジョー」の原作も梶原一騎なんですけどジョーみたいに
白い灰になんかなりたくない。リングなんかあがりたくないし魔球なんか投げたくない。ていうかチョコレートが食べたい。
だれかチョコレートください。義務でも義理でも人情でもお独りさま手当でもなんでもいいです。