東京タワー

帰省したときに甥が見てたウルトラマンゼロのDVDが気になって大人の会話に集中できなかったのだけど、
ウルトラマンベリアルっていう悪いウルトラマンが最新鋭のスーパーカーみたいな顔でやたら格好よくて
ちょっとギーガーとかエヴァの影響も見てとれるなあ。とか、姪がときめきトゥナイトを読んでるのを見て
あー懐かしいなあとか蘭世が大人になったらかしゆかだよなあとか、ゲームウォッチがDSやPSPに変わった
ぐらいで自分が子供のころとそう変わらない光景。トミカタワーはいまも健在だった。
街から出たことのない甥にもし東京に行くとしたらドコ見たい?と聞いてみたら迷うことなく東京タワー!と
答えたので自分が甥と同じ年頃にブロックで作った空想東京タワーと時空が繋がって不思議な気持ちになった。

子供のころ近所にとても高いポプラの木があってその脇を流れていた小川でよくドジョウを採って遊んでいた。
とくに意識してたわけでなくてもまるですべてのベクトルが上を向いた意思そのものみたいなポプラの木の
シルエットは今でも露光オーバーの残像みたいに記憶に刷り込まれていて、スタンドバイミー的にいうならば
あの木はぼくらのランドマークだった。平べったい街の郊外ではどこからでもよく見えた。
街の環状線の工事が始まってポプラの木が切り倒されてしまったころ、東京に出てきた自分はポプラの木の
何倍も高い東京タワーに登った。シャレで東京タワーに登るというのはよくやった。大学時代にみんなで
わざわざかしこまったスーツを着てはとバスツアーに参加して皇居と東京タワーの前で記念写真を撮った。
東京タワーはポプラの木の何倍も高かったけど、ビルだらけの東京のどこからでも見えるというほどではなく
時折ビルの隙間からチラッと見えるぐらい、芝公園ぐらいまで来てやっとポプラ並みのランドマーク感だった。
それでも物理的にどれだけ高いかということよりも、お約束として東京タワーに登るというイベントを誰かと
共有するということが子供時代の空想とは少し違って大人になったところだ。

生物学者のリチャード•ドーキンスという先生が人類の文化の文脈を伝える文化的な遺伝子のことを「ミーム」と
いっていたのを思いだしたのだけど、たとえばアメリカではじまった「デニムのズボンを履く」という習慣が
全世界に広がるみたいなことも含めてミームという。自分が子供のころ見てたウルトラマンシリーズがいまも
脈々と引き継がれていたり、姪がときめきトゥナイトを読んでたりフランスの子供がドラゴンボールを見て育つ
みたいなことも含めてミームといえる。そうすると東京タワーのミームというのも確かにあってただ物理的な
建物としての文化遺産というだけではなく東京タワーを取り巻く物語、ストーリーテラーとしての東京タワー
に蓄積されてきた4次元的な資産みたいなことを考えると、いかにスカイツリーが高さで東京タワーを圧倒
しようとも東京タワーのミームはまだまだ強力なのだとおもった。スカイツリーが完成してもやっぱり甥が一番
見たいのは東京タワーじゃないかな。そもそも「東京タワー」というネーミングに永遠不滅なものを感じる。
長島巨人のような。昭和のイコン。たとえ跡地になったとしても。