ライ麦畑でつかまらなくて


 
レヴィ・ストロースサリンジャーも亡くなったというよりまだ生きてたんだ!?と思った人のほうが多いだろ
ってぐらいの大往生だった。村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライがまだ本棚に残っていたのでパラパラ
めくっているうちに結局ぜんぶ読んでしまい気分が悪くなる。ほとんどディテールを忘れていたけど相変わらず
胃からこみ上げてきたゲロをむりやり飲み込むような描写が延々続いて思春期を無事乗り切った自分にホッとする。
主人公ホールデンのいうところのインチキ臭い連中のひとりとなってしまったのかしら。要するにおっさん。
思春期小説といえばヘッセの「車輪の下」のほうがよっぽどディープインパクトだった記憶があるのだけれど、
ヘッセの場合はその後の作風の展開も神がかってた。「デミアン」とか「シッダールタ」とか別人かと思うぐらい
凄みがあった。あれは宇宙人が憑移してたとしか思えない「車輪の下」を超える傑作。サリンジャーにはそういう
飛躍はなかった。とおもう。サリンジャーライ麦畑しか読んでないけど。読み返しながら、ちょっとおもしろい
ところがあったとすれば主人公のホールデンがなんとなく「かいじゅうたちのいるところ」のマックスが成長した
その後のストーリーみたいに思えてきたこと。思春期のあのモヤモヤとした行き場のない鬱屈した気分は、たぶん
子供のころ自然に繋がっていた自分の内面世界を失うところからくるんじゃないかと思った。孤独を孤独と感じずに
いつまでも独りで遊べた内面世界を失うことで、かいじゅうたちが去ってしまったことで、その喪失感を穴埋めする
かのように自然と外側の世界へと意識が向くのが思春期。スピリットの枯渇感から友達や異性からエネルギーを
得ようとしたり、外の世界に必死に繋がりを求めようと右往左往するのだけれども、その世界はトンチキな連中が
インチキなことばかりやってる。理想郷だった内面世界とはあまりにもかけ離れた世界だった。を描いたのが
ライ麦畑でつかまえて」というわけ。ライ麦畑で無邪気に遊ぶ子供たちを、崖から落ちそうになる危険から
救うキャッチャーになりたいという意味不明なホールデンの言葉もつながるわけだ。
If a body catch a body coming through the rye ♪ってどんなメロディーなんだろうなあと想像しながら、
思春期を乗り切れなかったリバー・フェニックスのことを思い出したりしてた。
 
 
 

↑ちょっと泣けた。
以前やったワークショップのドラえもんが学校の掲示板にバーンと貼り出されていて、
こんなこと教えていると世間に知れたら嫁にいけなくなるわとおもいました。