東京さくら Tokyo Sakura

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
自分独りぼっちでなにやってんだろ?と思いつつ、いつの間にかこんなに撮ってた。
いろんな意味で今年の春は特別だから。また春が巡ってきたことに感謝!

去年の目黒川の桜吹雪はこちら
 
 

梅が咲いて雪が降った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
なんとなく興味本位で買ってみた梅盆栽も4年目。梅は花が終わったら枝をばっさり切り詰めないとどんどん枝が伸びて
間延びしたスカスカのだらしのない樹形になってしまうのだけど、この切り詰め作業がそう簡単じゃない。
新しい枝となる葉芽ができる部分を見極めながら、枝のどこを切ってどこを残すか?それで樹形がほぼ決まってしまう。
どんな形で花を咲かせるかは自分次第。そんな選択を毎年迫られるわけだけども選択したあとは自然の流れにすべて委ねる。
切ってしまったものは戻らない。変なところから枝が伸びてくるかもしれない。期待どおりの花が咲くとは限らない。
好きなあの子にはフラれるかもしれない。希望のところは落ちるかもしれない。道がポッキリ折れてしまうかもしれない。
でも、想像もしなかったところから道が伸びてくるかもしれない。思いもしなかった出会いがあるかもしれない。
 
だから春なんだね。
 
 

2000年と2012年のフジカラー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
なんとなく思い入れという口実と一緒に部屋の片隅に封印してたペンタのフィルムカメラを、インド放浪したときの相棒を、
動かないしカビてるしもう捨てるぞと決心し、裏蓋を覗いたらフジのポジフィルムが装填してあった。いつ撮ったものなのか
何を撮ったのかまるで記憶にないけど、封印されているイメージだけでも掘り起こしておきたいという好奇心が頭をもたげ
現像に出してみた。カメラはゴミでもイメージは永遠なのだから。現像からあがってきたフィルムは12年分の色を失っていた
にも関わらず、何かを喚起させるには十分なアウラを放っていて、つまり写真が写真たるべきことを主張してるようだった。
かって在りし日々。自分が失ったもの。去ったもの。フィルムの退色が記憶の色褪せ具合とぴったりと呼吸をあわせていて、
それこそフィルムのやさしさだよな、と思った。
 
 

冬の旭山動物園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑ぶっちぎり
 
キリンのあの長い首は高いところにある食べ物をとるためにより首の長い個体が生存競争に有利に働き、その個体の遺伝子が
引き継がれたため云々‥という進化論のあれだけど、もし自分がキリンだったら首を伸ばす努力なんかより低い所の食べ物を
食べれるようになるほうがよほど早い気がするし、首の長さをかけた生存競争なんかしたくないって思う。
その理屈を人間でいうと生存競争に勝ち抜いたイケメンだけが遺伝子を残し未来はイケメンだらけになるって言ってるような。
ペンギンのあのうっとりするような流線型やカラーリングも、環境に適応するために云々‥という進化論的に解釈して意味づけ
してしまうことの、なんというか人という種族の視界の狭さというか、自然界の意匠には人が理解しうる意味とか論理を遥かに
超えたものがあるなーというのは常々思うことだけども、意匠というからには何かによる創造の意思がそこに作用しているに
違いないという前提なんだけど、それは生存競争とか適応とか意味とかそんなものではなくて、宇宙の遊び心なんじゃないかと
思います。だって意味わかんないもの。長い首とか斑点とかオレンジのスカーフとか。
 

あけましておめでとうございます。

 

 

 

 

1947年創業の老舗。蜂屋。http://r.tabelog.com/hokkaido/A0104/A010401/1003302/

 

 

フローズンT

 

 

久しぶりに北海道の実家に帰省すると、普段いかに同世代か若い世代の偏った層としか接してなくてファミリー世帯とも
無縁なんだなあ、と気づかされるのだけども田舎で触れる人々は子供からお年寄りまで、それこそゆりかごから墓場まで
人生のタイムラインにズラリと並んでいて、どこの誰かが亡くなったという話と同時にどこの家に子供が生まれたなんて
話も聞くから、それはまるで生と死のメリーゴーランドのよう。うちも母が亡くなりぎこちない空気が漂っていた親父と
男二人だけで過ごす実家の正月も、たまに遊びにくる賑やかな甥と姪の未来や、時の流れがうまく場を取り繕ってくれた
ようなそんな気がする。どんな家族であれ永遠に変わらないということはないから、メリーゴーランドから1人また1人
と降りていっては新たな命も乗ってくる。時はグルグル巡る。そのタイミングは人それぞれなんだろうけど。
実家は昔から神道系なので毎年正月に決まった教会に参拝に行くのだけども、そこに居合わせた100歳のおばあちゃんが
背筋をピンと伸ばして白い窓に逆光で凛とした立ち姿が美しかった。なにもない白い国だからこそ人が際立つのだと思う。